“東海道五十三次”は歴史(社会)の教科書に取り上げられているので、「聞いたことも無い」という方はほとんどいらっしゃらないだろうと思っていたのですが、実はあまりご存じでない方が結構いらっしゃいます。というのも、東海道五十三次が、江戸時代、江戸(今の東京)と京(今の京都)とを結んでいた街道だったことに起因しています。
江戸と京とを結ぶと言っても、通っていたのは、現在の東京都、神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、京都府の1都1府5県、現在の47都道府県から考えると7分の1でしかありません。東海道が通っていないところからすると、全く身近な存在ではない。これももっともなことです。ですが、私にとってはそうはいきません。と言うのも、東海道は私の家の前を通っている道だからです。
そんなわけで、ここでは、東海道五十三次をざっくりと解説することにします。とはいっても、難しいことを書いたとしても、関心の無い方は素通りしてしまうでしょうから、入門編として超簡単なクイズ形式で説明してみようと思います。
<目 次>
(1)そもそも東海道五十三次って何?
(2)江戸時代の街道といえば他に何がある?
(3)それじゃあ“五十三次”の意味は?
(4)53って誰が決めたの?
(5)東海道五十三次はなんで有名なの?
(6)今はどうなっているの?
(1)そもそも東海道五十三次って何?
東海道五十三次は、江戸時代、江戸(今の東京)と京(今の京都)とを結んでいた、延長約500キロ程の街道です。
ご存知の通り、江戸には将軍徳川家が、京には天皇家がお住まいでしたから、この二つの町を結ぶ街道は、“天下一の街道”ということになりますね。
(2)江戸時代の街道といえば他に何がある?
“街道”と名の付くものは数あれど、江戸時代は江戸を起点とする「五街道」が良く知られていました。「五街道」は東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道です。中山道は江戸から信州を経て草津で東海道に合流します。日光街道、奥州街道、甲州街道はそれぞれ目的地が名前に入っているので、大体わかりますよね。
ちなみに、江戸時代の街道は目的地の名前が付されているものが多いので、違った経路を通っていても同じ呼び名の街道もあります。「北国街道」や「伊勢街道」などはその代表的なもので、同じ名前の街道が各地にあります。逆に、同じ街道でも住んでいる場所によって異なる名前で呼ばれていることがあります。進む方向が違えば、目的地が違うのも当然のことですよね。
(3)それじゃあ“五十三次”は?
当時はほとんどの人が歩いて旅をしていました。なので、東海道約500キロを歩いて旅した場合、当然一日では江戸や京には行きつきません。今なら新幹線で2時間余りで日帰りもできてしまいますけどね。
という訳で、旅の途中で宿泊する必要がありました。旅の途中で休息をしたり宿泊したりできる場所が「宿」(「宿場」「宿場町」などとも言います)です。東海道には53の宿場町があったため「東海道五十三次」と呼ばれたのです。
このように説明すると「宿」=「次」という風に思われるかもしれませんが、正確にはこれは正しくはありません。このことを説明するためには、当時の荷物の運搬について説明する必要があります。
街道は人だけでなく多くの荷物(物資)が移動しました。荷物の運搬には人の手間だけでなく牛馬も使われ、このための人(“人足(にんそく)”という)や牛馬を集め準備しておくことは宿に課せられた大きな責任でした。そして荷物運搬のための手間や牛馬にかかる費用は宿に暮らす人々に税として課せられていました。こうして集められた人や牛馬を手配する役目を“問屋(とんや・といや)”といい、街道を通過するすべての荷物は問屋を経由し、問屋に手配された人や牛馬によって運ばれていた訳です。
それぞれの宿の問屋が担当する区域は、隣の宿までと決められていました。それはそうですよね。目的地まで一気に荷物を運んだのでは、人足や牛馬の帰りの手間が大変になります。また、問屋の業務も煩雑になるわけです。そこで、担当区域を隣の宿までと区切り、荷物はそれぞれの宿にある問屋を駅停車していったわけです。このことを、問屋が荷物を次々に引き継いでいくことから“継立(つぎたて)”と呼びました。
五十三次の“次”は継立の“継”から来ているわけで、“次=継”が正しい答えということになります。本文の表現をできるだけ正確に書き直せば、「東海道には、荷物の継立を行う宿が53あったため、“五十三次”と言われた。」ということになるでしょうか。
(4)53って誰が決めたの?
東海道に宿を定めたのは、江戸幕府を開いた徳川家康さんです。53の宿にはそれぞれ徳川家康さんから「駒の朱印状」と呼ばれる、宿の免許状のようなものが出されていました。
多分最初から53にしようとは考えてはいなかったのだろうと思います。旅をする人たちの便宜から、必要に応じて整えていくうちに、結果として53になったのではないでしょうか。
さて、現代の話ですが「東海道は53次ではなくて57次だ」と主張される方々がいらっしゃいます。東海道は「江戸と京」との間ではなく「江戸と大坂」とを結んでいたという主張で、京と大坂の間の「京街道(大坂街道)」4宿を加えて「東海道57宿」と言われているのです。江戸時代にそう呼ばれていたのかどうかなどについては私にはわからないので、ご紹介するにとどめておくことにします。
(5)東海道五十三次はなんで有名なの?
街道としては他にもよく知られたものがありますが、やっぱり「東海道五十三次」は別格と言えるでしょう。ここでは、3つの答えを用意してみました。
①東西の大都市を結んで、最も往来の激しい街道だったということ
まず最初は、やはり東海道五十三次が、当時の大都市、江戸と京とを結んでいたということが挙げられるでしょう。その上で、江戸や京に向かう街道が最終的に東海道に合流していたのです。そんなわけで、人の往来が最も多い街道だったと思われます。
東海道を通った人々の中で特に有名なのは、参勤交代で国元と江戸とを行き来した大名方が挙げられます。参勤交代の大名行列は、その大名の石高(こくだか)に応じて百数十人から数千人規模のものまであったと言います。
また、伊勢神宮を参拝するための伊勢参りの方々も、その多くは東海道を経由して伊勢へと向かいました。
②文学や絵画の題材となって、人々のあこがれの対象となったこと
次に、当時の文学や絵画で取り上げられることが多かったことも挙げられるでしょう。
“弥次さん喜多さん”で有名な十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』。東海道の各宿を浮世絵にした歌川広重(うたがわひろしげ)さんなどはその代表格です。
当時の人々にとっては、こうした文学や絵画が旅の情報源でした。各地の珍しい風物を知る一番の手がかりだったんでしょうね。それだけに、旅へのあこがれとともに、東海道が多くの人々に知られることになったのではと思います。
③旅の醍醐味、名所旧跡や名物の多さ
そして、沿道に多くの名所旧跡や名物があったことが挙げられます。沿道各所にある名所旧跡、そして名物は、旅の醍醐味の代表です。一生に一度行けるかどうかの旅ですから、何を見ても楽しかったのかもしれませんが、土産話のネタに事欠かなかったってことでしょうか。
東海道の名物は現在でも各地の名物としてよく知られているものがあります。誰でも大好きな“甘いもの”では「安倍川餅」や「小田原外郎」、食事では丸子の「とろろ汁」や「桑名の焼き蛤」などです。今でも各宿を訪れると、名店として知られた店が営業を続けられています。
江戸時代の旅人は、文学や絵画で旅へのあこがれを膨らませ、旅の途中で名所旧跡を辿ることで、旅を一生の想い出としていたのでしょうね。
(6)今はどうなっているの?
東海道の経路は今、国道一号線になっています。国道一号線は自動車が通る幹線道路で、江戸時代と比べると当然拡幅がされ、沿道も開発されてしまっているところがほとんどです。しかし、街道だった時の “峠道”や“関所”、 “松並木”や“一里塚”、そして、往時の宿場の趣きを残す町などがところどころに今も残っています。
例えば、 当時“街道の難所”として知られていた“峠道”や“関所”。峠では「箱根(はこね)」(箱根町)と「鈴鹿(すずか)」(亀山市)は東海道の二大難所として知られていました。関所では「箱根」と「新居(あらい)」(湖西市)がありますね。
一方、旅人たちが体を休めた “松並木”や“一里塚”では「御油の松並木」(豊川市)が良く知られていますが、他にも大磯(大磯町)・三島(三島市)・舞阪(浜松市)・「池鯉鮒」(知立市)などにも残っていて大切にされています。“一里塚”としては私が住む亀山市に「野村の一里塚」があります。
そして、往時の宿場の趣きを残すところもあるんですよ。そう東海道五十三次、江戸から数えて47番目の宿「関宿」です。関宿は、東海道五十三次の宿では唯一、国の文化財である重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、有松絞で有名な有松(名古屋市)も東海道の往時の面影をよく残しています(有松は53の宿には含まれない“間宿(あいのしゅく)”でした)。
こうした、今も残る東海道五十三次に行けば、江戸時代の旅を直接感じることができます。
あなたの“行ってみたい場所リスト”に入れてください
どうです、ざっくりと東海道五十三次がわかってもらえましたか?
そして、行ってみたくなったんではありませんか。